私がこの仕事をしている理由_これまでの経歴と原点
※以下は過去の経歴です。興味のある方だけ、お読みいただければ幸いです。
幼い頃から「思うようにいかない」人生でした
私は大阪で生まれ育ちました。
実家はカメラ製作所で、特殊用途のカメラを製作する、いわば職人の世界でした。
小学校時代は水泳に打ち込んでいました。
水泳大会では平泳ぎの種目に出場予定でしたが、
「その足の使い方は平泳ぎとは認められない」と告げられ、
大会に出場することすらできませんでした。
悔しくて、情けなくて、ただ呆然としたことを今でも覚えています。
この頃から私は、「努力しても報われない現実」を何度も味わうことになります。
夢を断たれた高校時代、そして突然の家庭崩壊
大阪の浪花工業高校へ進学。
野球が盛んな学校で、私も必死に取り組んでいました。
しかし、当時の厳しい指導の中で足を痛め、腱鞘炎を発症。
「選手は無理だ。マネージャーになれ」
そう宣告されました。
夢を失った矢先、金沢の学校に通っていた時に、 実家で父と兄弟の間に深刻な内部分裂が起こります。
将来、手伝うはずだった家業は消え、
帰る場所も、進む道も、一気になくなりました。
行き場も目的もなく、とにかく働いた学生時代
生きるために、私は何でもやりました。
日中はチリ紙交換、学生アルバイトのあっせん業(学生1人1,000円)。
農地からJAへの運搬、稲刈り時期の農家集配。
今では見かけなくなった電話帳配りもしました。
1冊70円、歩いた分だけ収入になる世界です。
夜は教育機材のテレホンアポインター。
アポイントが取れればキックバック、
契約に結び付けばさらに報酬が入る。
今思えば、この時期は不思議と運だけは味方してくれていました。
安定を捨てても消えなかった独立願望
卒業後、福井県の大手企業「株式会社 松浦機械製作所」に就職。
誰もが羨む安定した環境でした。
しかし、心の奥ではずっと問い続けていました。
「このままで終わっていいのか」
その答えを探すように、私は会社を辞めました。
家族を守るために限界まで働いた引っ越し時代
次に就職したのがアーク引越センターです。
この頃、結婚し、家を建て、子どもにも恵まれました。
その分、住宅ローンや支払いは一気に増えていきます。
引っ越しの仕事は過酷でした。
靴底に穴が開いても、ボンドやコーキングで補修しながら現場へ。
夜は佐川急便でアルバイト。
今でいうWワークですが、当時はほとんどいませんでした。
初めての独立、そして突然の転落
現場で気づいたのは、
タンスの傷補修、退去後の清掃など、
「困っている人は多いのに、応えきれていない仕事」が山ほどあることでした。
社長から社内独立を提案され、事業は軌道に乗ります。
しかし、しばらくすると専務の妬みから、突然職を失いました。
理由も説明もなく、またしても路頭に迷います。
地獄のような修行と、命を削る日々
同業の後輩を頼り、株式会社ビコーへ入社。 完全請負制の世界でした。
「おまえ、いくら欲しいんだ?」
私は答えました。「月100万です」
朝3時から働く日も珍しくありません。 住宅ローンはステップ返済に入り、 多い時は月18万円の支払い。
日曜も休みはなく、家計は火だるま。
ある日、疲労が限界に達し、意識がもうろうとしたまま 車で店に突っ込む事故を起こしました。
会社に連絡すると返ってきた言葉は、
「事故は自己責任ですが、現場は残ってますのでよろしくお願いします」
今では笑い話ですが、当時は洒落になりませんでした。
挨拶の声が小さいだけでやり直しをさせられる、 そんな体育会系の世界でした。
すべてを背負って、もう一度独立
時代の流れとともに、請負の世界にも限界を感じ、 私は見切りをつけました。
これまでの失敗も、挫折も、修行も、すべてを糧にして、 私は再び独立しました。
今、この仕事に向き合う理由
私の人生は、ずっと「思うようにいかない」連続でした。
だからこそ、困っている人の気持ちがわかります。
「こんなこと、頼んでいいのかな」
そう思ったときに、思い出してもらえる存在でありたい。
それが、私がこの仕事を続けている理由です。
続きは作成中です。

